何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

はてなだけの話

仕事は言われたことができればいいのだと思う。

そして言われていないことはあまりしない方が良い。少なくとも一般社員のうちは。

一番良くないのは業務用の場で自己開示をしてしまうこと。時々感情に流されてやってしまうが、業務時間はすべてロジックで動くのが大原則。

その埋め合わせとして日本企業は飲み会などの場を設けている。

 

言われたことをするだけと言っても、もしなんでも言われた事ができるならそれはすでに超人だ。

それは難しいので業務時間内の空き時間を見つけて準備をしておく。

FastAPIのドキュメントをコツコツよみソフトウェアのロジックを学び、Streamlitで最低限のUIを学ぶ。そしてAzure AIに触れておく。

そして、言われたことだけをしつつ、自分の意志の方向へ向けていく必要がある。

意志というよりは罪だが、そのために統計学にコミットする。ここは責任を請け負って表面的でない自分の目で見て考えたものをアウトプットするようにする。間違っていても良い。

 

以上が業務時間で、それ以外の時間こそ自分の意志に自意識に罪にみちびかれて生きれば良い。

 

 自由意志の途切れ目には確かに静寂があった。私はその時遠い月の世界からの巡礼から戻り、藁ぶきの茶色い壁が一面に苔むした簡素な邸宅の一室にいた。体には深い疲労があり、何の欲求ももはや感じることができなかった。私の精機は黒くしなびて、もはやイナゴの甘露煮のように生気を失っていた。

 ぼんぱっというおとに意識を断ち切られると、向井眠りが私に訪れた。眠りの中で私は、土ぼこりのまくれ上がる車道を押さない友人と歩いていた。彼は重そうなメガネの奥からしきりに道の端の雑草を見つめていた。僕は腹がすき、早く家に帰りたかったのでそんなところにしゃがみ込む彼がもどかしかった。引いている自転車の車体が僕の肩に重く食い込む。

 彼はじっと色ちゃけた草の中心を観察していた。僕は虫かごをもって彼の横にしゃがみ込み、おい、何かいたの、と聞くと、いいやと彼は答えて、何もいないが確かににおいがしたんだ。何のにおだい?うーんと彼は言葉に詰まり、あそこが固くなるにおいさ。そういってかれは赤くなった。

 

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添削

 

自由意志が途絶える境界には、深い静寂が広がっていた。遥かな月の領域からの長い巡礼を終えたばかりの私は、苔に覆われた藁葺き屋根の古い家の一角に身を寄せていた。体中には尽きせぬ疲れが染み付いており、どんな欲望も感じられずにいた。私の心は、色を失ったイナゴの甘露煮のように、すっかり枯れ果てていた。

突如として、‘ぼんやり’とした音と共に意識が遮断され、深い眠りが私を包み込んだ。その眠りの中で、私は塵を巻き上げる道を、友人と肩を並べて歩いていた。彼はその重そうな眼鏡の奥で、何かを捜し求めるように道端の草花を見つめていた。空腹と家路への思いでいっぱいだった私には、彼が草むらにしゃがみ込む姿がただただ苛立たしく映った。自転車を引きながら歩く私の肩には、その重さがじわりと痛みとなって刻まれていった。

彼はある枯れた草の束に目を凝らしていた。私は彼の隣に虫かごを持ってしゃがみ込み、「ねえ、何か見つけたの?」と尋ねた。しかし、彼は首を振り、「いや、何もいない。だけど、ここには確かに特別なにおいがしたんだ」と答えた。「どんなにおい?」私の問いに、彼は少し言葉に詰まりながら、「こう、生命が宿るようなにおいだよ」と、言葉を選ぶように答えた。その答えに、彼は顔を赤らめた。

 

欲求のさまざま

ある飲み会の席で会社の上司と「残業は悪か善か」という話になった。残業を肯定したい上司に対して周囲はいやいやながらも同調しなければならない雰囲気だったが、僕は断じて嫌だったので気配を消して話を振られないようにしていた。

残業は人から貴重な時間を奪うものであり、非効率の象徴であり、ない方がいいという思いは今も変わらないし、僕は仕事が終わらなくても定時で切り上げて帰ってきてしまうだろう。その結果評価が落ちても首になっても構わない心づもりだ。

しかし、残業を肯定したい上司にしてもそういう時間の大切さや非効率の問題は理解できていたはずだ。それがなぜ肯定派に回るのか。

「ここからここまで、と区切るようなやり方が嫌なんだよね。責任がないというか、本気じゃないというか。それって言われたことやってるだけじゃん」

こんなことを彼は言っていたと思う。これは僕もわかる。というか僕にとっても、この感覚は大問題だ。自分の実存に直結するといってもいい。

僕の中にも何かに本気になって生命を燃焼させたい欲求があって、これは僕だけでなくてこの世のあらゆる生命が抱いている根源的な欲求なのだと思う。それをどこに向けるのかが違うのだ。

上司の場合は非常に、天才的といえるくらい利他的な人だからその欲求が組織への貢献へと向かう。僕の場合それは理解すること手触りがわかるまで概念を見つめ続けたいという意志へと向かう。理解すべき対象と向き合っている瞬間、それが一番楽しいのだ。

反抗は反抗らしくあれ

ずっと僕が創作をする意義について悩んでた。それになんの価値があるのかと。

そもそも価値などない。なぜなら僕の創作物はなんら意義のある主張も含んでいなければ、かと言って既存の理論の明快な解説も出来ておらず、内容浅薄にしてむしろ数学の進歩にとって害悪とさえ言っていい代物だから。

それに今は共著で難解な長い論文を書くことが良しとされる時代で、十ページ前後の単著論文では全く話にならないだろう。

僕の卑しい心は10ページに満たない些細な論文を見つけるのが嬉しく, 20ページまで行くともう苦しくてそれを超えると無力感で絶望してしまう。

さらにやっと6ページ書きすすめたところが定理だと思った部分も実は自明じゃないかと気づいてしまった。ほんとうにこれはくだらない代物だ。

しかしそれでも僕は書かないでいることが苦しい。自分自身と格闘しないでいることに耐えられない。

そうだ、今日話してわかった。書く理由は人さまざまだが僕は僕のために書いている。それは僕の自己実現とか向上や利益のためではなくて、まさに僕の戦いのためにだ。

完全にナンセンスな戯言に時間を費やすことがゴールなら、それが戦いの結果ならそれでいいんだ。

僕は戦いを辞めたくない。内側からの戦いをやめたくない。

沼田真佑『影裏』

素晴らしい作品でした。

この硬くて澄んだ描写は一周回って素人くさい感じを出しているのだけど、明らかに何か描かれるべきものを描いている。

それは僕が、十代の頃から感じていて今では忘れ切っていて、得体のしれない憂鬱になって漂うしかなかったようなもの。

日浅の『おれは誇れるものがないことが誇りだけどな』という言葉が美しい。こんなことをいう男を壊したらいけない。

どうしての僕らは壊れていくのだろう。何が僕らを壊したんだ。その怒りを主人公と共有できた気がした。

ラグランジュの未定乗数法

定理

$\Omega$ を $\mathbb{R}^2$ 上の開領域とする。$f(x,y)$, $g(x,y)$ は $\Omega$ 上の十分滑らかな実数値関数で、$(x_0, y_0) \in \Omega$ において、$g(x_0, y_0)=0$ かつ $\nabla g (x_0, y_0) \neq 0$ とする。この時以下は同値:

(1)$f(x,y)$ が $g(x,y)=0$ のもとで極値をとる。

(2)ある$\lambda$ が存在し、$\nablda f (x_0, y_0) = -\lambda g(x_0, y_0)$.

(3)ある$\lambda$ が存在し、$f(x,y) + \lambda g(x,y)$ が $(x_0, y_0)$ で極値をとる。