何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

トラウマの乗り越え方

2021年の11月2日に遡る。思えば自分はこの日から今日まで数学の学習に関してはずっと精神的な不調を乗り越えられないでいる。

この日は久しぶりのセミナーがあって、自分はここで本当に必死に考えた内容を発表したのだった。しかし、準備は思うように進まなくて、まだ途中の段階で発表しなければいけなかった。原稿も当日の朝に殴り書きしたメモしかなった。

そしてやはり大失態をしてしまった。最初からしどろもどろになってしまったのだが、特に外積代数の内積の定義についての簡単な質問に対してさえはっきりと答えることができなくて泣きそうになった。

それ以降自分は、なにか考えようとするたびに「こんなこともわからないのか」という声に悩まされて苦しんできた。今でも自分は数学を学ぶ資格がないという気がする。それで落ち込んでいるだけならまだいいのだけど、無性に悔しいのだ。そんな定義はわかっているはずなのに、頭の中のもやに邪魔されて明瞭な声にすることができなかった。あとから時間をかけてそのあたりの記号の定義を確認してもそれでも心のもやもやが消えなかった。

基本的に何かを学んでいこうとするとき、それを周囲に対して見せていこうとするとき、十中八九の人たちははなから「君はなにもわかってないし的外れだ。できるはずない」という視線を向ける。白状すると自分だってそうだ。だから自尊心の問題なんだ。自尊心が低い人は良く言われることだけど、途中でそういう視線に耐え切れず離れてしまう。やりたいことを続けられない。つづけたってみじめな道が続くだけだ。

おそらくオリジナリティというのは若者か子供に与えられた特権である。大人の世界にはオリジナリティなんてなく、あるのは続けたか続けなかったかということだけ。

しかし続けられなかった人を単純に責められるだろうか?続けるためのあらゆるリソースを奪われる中でそれでも続けることは本当に苦しい。