何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

駅前通り

遠い世界に行きたいと願うとき、何から始めればよいのだろうか。

目的なしに降りた駅にはマクドナルドもなかった。日差しを避けて高架橋下に潜り込んだ。小さな蕎麦屋があった。メニューはかけそばと山菜そばしかなく、金欠だった僕はかけそばを注文せざるを得なかった。狭い店内は午後の妙な時間ではあったが、お客でほとんど埋まっていた。中年男性が多く、行き場の選択肢の少ない男たちがここに吸い込まれてきているのだった。

座席が窮屈でそばをすするたびに首が痛んだ。

右の角のテレビでは全て僕とは無関係な今週の出来事を振り返るニュース番組が流れていた。

唐辛子がテーブルにないことに気づき、横を見ると隣の客の妙な行動に気が付いた。彼はちぎった紙切れをもくもくと器の中に浮かべていた。まだ湯気を立てているそのそばを食べるのだろうか。周囲のだれもこの異常な行動を気に留めていなかった。

好奇心に駆られて男に声をかけた。

「それトッピングですか?」

驚いた様子の男が手を止めて

「ネットで観たんだよ」

「何を」

「いやこうするのが案外健康的なんだ」

「紙ですよ?」

「野菜みたいなもんさ」

そういうと男は美味しそうに紙の浮かんだスープを飲んで見せた。

「ノリよりだいぶ固いな。でもノリはダメだよ。あれは汚染がすごいから」

男は紙切れのトッピングを勧めてきたが、周囲が恥ずかしくもあり咄嗟に音割ってしまった。残念そうに「こんなにうまいのに」とまた紙切れごとそばをすすった。

そそくさと店を出るとふいにアンケートに答えてくれないかと勧誘を受けた。見ると日本人ではない風貌の小さな女性だった。肌の色は黒く油を含んだ長めの髪が雑に結ばれていた。やはりここでも視線が気になったので、反射的に断ったが女に腕を掴まれどきりとした。

「1分で終わるんです」

「何のアンケートですか?」

「この紙に書いてください」

そういわれてペンを挟めたボードを渡された。紙は何かの契約書のようで細かい文字で条文のようなものが記されていた。しかも日本語ではない。

「すみません読めません」というと、女はここに名前を書けばいいのだと右下を指した。内容もわからないのに無理だとボードを突き返したが、女は受け取らず、手を離すと二人の足元に落ちた。通行人が一瞬振り返ったがそれだけだった。僕もそのまま背を向けて立ち去ったが、そのときに女が背中に何かをぶつけてきた。曲がり角のコンビニに入り、トイレに直行し、確認すると少し濡れていて牛乳のようなにおいがした。ひどい駅で降りてしまったと思った。こんな区域がこの東京にあるとは思ってもいなかった。

コンビニを出て、道沿いを北に少し歩いてみることにした。すぐに住宅地となり、民家の灰色の塀が雑多に並ぶばかりだった。これでは週末のちょっとした散歩としても全く満足がいかない。人影は一つもなかった。

住宅地を抜けると急に川ががあり、そこに沿った遊歩道があった。不思議なつくりの土地だと思ったが、せっかくなので遊歩道を歩いてみることにした。川は割と大きく夕暮れのこの時間帯には悪くはない眺めだった。

突き当たりの橋の下で何やら宴会を行っている一家がいた。

「お父さんみて!」

そういってシャボン玉に興じる少女をブルーシートから大人が見守っている。黒いワンピースの少女はまだ幼稚園くらいで、父母と思われる中年の男女はブルーシートの上におつまみ類を広げてくつろいでいた。女のほうと目が合ってしまった。どきりとして横の階段を駆け上がろうとしたとき、足を滑らせてしまった。

「大丈夫ですか」

と男が声をかけた。声にならないほどの息遣いで、顔もむけずに大丈夫だと会釈して逃げようとしたが、

「ちょっとこっちきません?」

と男に誘われ振り向いてしまった。ついそちらに行ってしまうと、

靴は脱いで」

と言われるままに靴をぬいでシートの上に上がってしまった。女が自家製らしいお茶をプラスティックのカップに注いでくれた。これは何かと聞くのも失礼に感じてお礼を言って飲むと、気道に強いアルコールを流し込みかけてむせた。

「ごめんなさい。これお酒なんです」

「何のお酒ですか」

「りんごとしその葉をつけた果汁酒」

「週末のピクニックですか」

「あの、というよりここが家です」

つまり彼らはここで生活しているらしかった。

「もう少しでおばあちゃんも来ます」

「何人で住んでいるんですか」

「3人です」

「じゃあおばあさんは別のところに?」

「いいえ母と私とあの子と三人です」

「あれ、お父さんは?」

男の姿がないことに気づき見回すと川に向かって少女とシャボン玉を吹いていた。

「あれは私のペットです」

真面目な顔で彼女は言った。

「この辺は人もいないので首輪なしで放し飼いにしてます」

呆気にとられたが「首輪なんておかしいでしょ」というと、

「街を散歩させるときはちゃんとリードにつないでますよ」

彼らが非常に変わった性向の人種であることがこれだけでも十二分にわかった。それでは少女は誰の子なのだろうと思ったが口に出せなかった。

女に水を買ってくるように言いつけられたので、男と二人でスーパーに向かった。道中男が、「あの女どう思う?」とどきりとすることを言うので、

「変わっているね」と当たり障りのないことを言うと、

「エロいだろう?」と露骨に卑猥な笑みを浮かべた。

「あの女、俺がペットだとか馬鹿なことを言っていたろう。あのとおりあいつは大分いかれているのだが、俺も女がほしくて我慢して知るんだよ。今は女と付き合うのが露骨に面倒だからな」

「じゃああの女の子は?」

「知らない。最初から一緒だったよ」

やはり男は父親ではないらしい。母とあそこで同居していると話していたことを思い出して聞いてみると、そんなのはいないと答えた。

「全部あいつの妄想だ。今日は外に連れ出してやってるが、危ないから俺の部屋にかくまってやってる。どうやら本当に外を転々としてたらしい。福祉の世話も受けてないんだ」

男の話がどこか陳腐なものに思えてきた。そう言うこともあるのだろう。もうよくある話ということにして、適当に聞き流しているうちに目的のスーパーについた。 男は一服すると言って、駐車場の隅にそそくさと消えてしまった。もちろんこんな人間たちにこれ以上付き合うこともないので、男が戻る前にその場を離れた。

駅前まで戻ると、路上で大道芸のようなパフォーマンスをしている男がいた。道路を挟んで目の前に交番があるというのに、よく堂々とやっている。もう一人の女が大声を出し駅から出てくる人を集めている。交番の中を覗くと、警官がその様子をスマホで撮っていた。

十分に人が集まったところで、それまで石の像のように固まっていた男が急に動き出した。手には水の入ったバケツをもっていて、そのバケツを何やら揺さぶっている。チャプチャプ音がしている。黒い飛沫が跳ねて、男の白い全身タイツを濡らした。

「さあ何が出てくるかな?」

女が前で見上げている少女にきいた。

「なんだと思う?」

「金魚?」と少女が恐る恐る答えると、後ろの太った男が野太い声で、

「女!裸の女!」と割り込んできた。もう肌寒いのに黄ばんだランニングに半ズボンの角刈りである。

「さあ行くよ、えい!」と女の合図で、白タイツの男がバケツを真上に放り投げた。黒っぽい飛沫が飛び、聴衆が後ずさった。汚水を頭からかぶったその芸人の足元に、濡れた雑誌類が落ちてきた。中に入っていたのは卑猥な写真の雑誌だった。

「これもらっていい?」と先ほどの男が飛び出して、ぐしょ濡れの雑誌を拾った。ずっと無視を決め込んでいた女がついに男の方を向いたかと思うと、手に持っていた日傘で男を思いっきり打ち据えた。雑誌を抱えたまま男はそこにうずくまった。女はもう1つの雑誌を拾い、目の前の少女に渡した。

「この写真ね、私なの」

ふいに右から肩を小突かれ、チラとみるとスーパーの入り口で置いてきた男だった。 「探したよ」と言う男が投げ捨てたタバコが誰かの飼い犬に当たり、驚いた犬が身震いした。

「あれ、買い物はいいんですか?」

「いいよもう。それよりあの女たまらんな」

黒のタイトな衣装をきた女はかがみこんで熱心に少女に写真を見せていたので、豊満な谷間がよく見えた。少女は棒立ちでじっと女の指先を目で追っている。一人で来ていたのか、それを制止する様子の大人はいなかった。

急にホイッスルを鳴らしながら、スマホで撮影していた警官がこちらにやってきた。濡れたまま立ち尽くす白タイツの芸人には目もくれず、女の方に向かって、

「すまない、とても疲れているんだ」

そういうと制服のズボンを付属のベルトごとジャラリと下ろした。彼のトランクス前面にたちまちしみが広がり、だらだらと足を伝って黄色い液体が溢れた落ちた。弛緩した顔の警官の逸物を女が不意に鷲掴みにすると、その場にへたり込んでしまった。

もう日が暮れようとしていた。結局、男と橋の下に戻るとそこに女の姿はなく、少女が一人で何か昆虫を割り箸でつついていた。

「母ちゃんはどうした?」

男が聞いても答えなかった。男は女を探してくるといい、少女と二人取り残されてしまった。横にしゃがんで「何してるの?」と聞くと、

「これがお母さんでこれがお父さん」と無残に足をバラさられた昆虫を棒で示した。 「おままごとかな?なんで足とれてるの?」

「知らない」

「ここで寂しくない?」

「うん」

聞いたものの、それが寂しいという意味なのかそう出ないという意味なのか、わからなかった。しかしこのような昆虫に対する虐待行為に走るということは無意識に寂しさがあるのだろう。本来なら児童相談所に通報すべき状況だと思った。

少女がお腹がすいたというので、スーパーまで連れてきた。

「これなんかどうかな?」と出来合いの天丼を見せるといらないという。結局クッキーなどのお菓子ばかり買い込んで店を出た。 男も女もいっこうに戻らないので、橋の下を離れることができない。

「何をしている」

とライトの光をふいに向けられた。闇の中のその人に目を凝らすと、小柄な中年男だった。

「ちょっと離れられなくて」

要領を得ない言葉でお茶を濁そうとしてまい、

「怪しいな」

と男が母親のものと思われる上着にくるまって寝入っている少女に目を向けた。

「この子の両親が戻ってくるのを待っているんです」

「連れてきたんだろう」

疑いの目を向けただけでなく、意地悪そうな笑みも浮かべたのを見逃さなかった。

「ここはへんな奴ばかりだが、流石にこれはやっちゃいけない。さあ来てもらおうか」

もうごめんだ。僕は走って逃げた。