何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

ポール・オースター著『ガラスの街』 断片的な物語の中の実存

1 プロット


この作品は13の章からなり、その前半のプロットは概ね典型的な探偵小説の形をとっている。各章の概略は以下の通り:
1. 探偵への依頼の電話 
2. 依頼主との接触
3. 依頼主側の関係者との対話
4. 事件と関連する出来事の回想
5. アイテムの入手
6. ターゲットの調査
7. ターゲットの特定
8. ターゲットの尾行
9. ターゲットとの対話
10. 関係する人物との対話
11. 街のホームレスに引き付けられる
12. 徹底した観察者、ホームレスとなる
13. 世界との同化
ミステリー小説風のプロットが急激に崩れだすのは後半の11章からで、ここからはまさにポストモダン風の個の喪失、ある事業への狂気、全存在との同化といった物語が展開される。この作風から、この作品にとって探偵小説としてのプロットそのものは見せかけの存在にすぎないのだと決めつけたくなるが、作中に登場するポール・オースタードン・キホーテについて熱弁する中で『結局のところ、ひとが本に求めるのはそれに尽きますーー愉しませてくれること (p.183)』と語っている。


2 ガラスの街というモチーフ


なぜガラスなのだろうか。まず連想するのはそれは映すもの、鏡となるということだ。実際この物語にはドッペルゲンガー的な要素が無数に登場する。
* まず書き出しは『そもそものはじまりは間違い電話だった (p.5)』となっており、誰の語りであるのかがぼかされている。どうやら語り手と主人公クインは別の人物なのであるが、作中で著者自身であるオースターが語るドン・キホーテ論は語り手とクイン、さらにはオースター自身も同一人物であることを示唆しているように思える。p.182の会話文の構図から察すると、ドン・キホーテがクインであり、サンチョパンサが語り手であり、作者セルバンテスがオースターなのだろう。『ドン・キホーテの物語を解読させる仕事に、セルバンテスドン・キホーテその人を雇う。実に絵になる構図です (p.183)』また、このドン・キホーテのモチーフは狂人スティルマンとクインの関係とも対応している。
* 暗い部屋とどこからともなく与えられる食べ物のイメージも、ピーターの話の中、クインの記憶の中の資料、後半のクインの状況と再三登場している。
* また、ピーター自体もクインの亡くなった息子の幻影であり、作中のオースターの妻や子供もそうである。クインは悲痛な声をあげる。『助けてくれ、とクインは一人祈った (p.186)』
* クインが入手したものと似た赤いノートブックをスティルマンも持っており、クインがノートブックに記述する内容は次第にスティルマンを思わせるものに変化していく。また、ピーターの体験やそれに関連する神話じみた逸話の内容を最終的にクインが追体験する。
* スティルマンの背後に第二のスティルマンが現れる。
* 駅の待合室の女に似た女がクインのアパートに入居する。
これらのドッペルゲンガーたちはどれも断片的であり、これがガラスの持つ破片としてのイメージである。
クインはこの互いを奇妙に映しあった断片的な物語の間をひたすら歩き回る。彼は妻と子の死という耐え難い喪失を経験しており、長い間死ぬことを、自らの実存を捨て去ることを望んでいた。そしてそのことさえどうでもよくなり、完全な実存の喪失状態にいた。そのような中で生き続けているクインにとって現実はどうでもよく、物語の中に吸い込まれていく。『クインに興味があるのは、物語と世界との関係ではなく、物語と物語との関係だった (p.13)』彼はウィリアム・ウィルソンとなり、探偵マックス・ワークの物語を書くことで生計を立てているが、次第に自身の創作した探偵と自分自身を混同していく。(ここにも上のドン・キホーテのモチーフがある。) そして彼はこのようにドッペルゲンガー的な要素で奇妙に重なり合う断片的な物語が展開するニューヨークの街を彷徨する。


3 バベルの塔の再建という題材