何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

フロベールの文体について

フロベール(1821--1880)のボヴァリー夫人(1857)を、同時期に書かれた書簡集も読みながら、彼の言う文体とは何なのかを意識しつつ再読している。

この作品の動機は、紋切り型の描写とリアルで皮肉な描写によって、彼がそれこそが描くべきものだと信じた、『もの悲しいグロテスク』を現出させることにある。

もの悲しいグロテスクというのは、それ自体全く滑稽の対極にあるもののはずなのに、心に滑稽さを強く印象付けるものだ。彼曰く、たとえその表現が紋切り型表現や皮肉を含んでいようと、読者はそのグロテスクによって強く感動を呼び起こされるのだと言う。

このモチーフを実現させるために生み出されたのが、<場面>と<場面>を切り詰めた<叙述>で滑らかにつなぐ彼特有の文体だった。

小説のメインは場面である。ここで場面は一枚の印象派の絵画のようなもので、1つ1つの事物が事細かに描写され、いたるところほのめかしが散りばめられ、そして、しばしば時間と空間を超えて表象が混じり合う。この場面において描かれる風景や動きはどれも感情をまとっている。

叙述とは、場面を引き立てるための口実あるいは補題であり、簡潔に、しかし生き生きと物語を進めることが求められる。

このような叙述のために、彼は自由間接話法を駆使した。自由間接話法によって、登場人物の動きのある感情を地の文の叙述に短い表現で取り込むことができる。

書簡の中にも会話文を書くことに苦労しているという言葉があるが、彼は巧みな活写で読者を引き込む劇作家というよりは、一枚の印象深い絵、岡本太郎がエッセイで言っていたような嫌な感じのする絵を描き出すことによって、読者に作品を印象付ける芸術家だったのだろう。