これからの文学に求められるのは、こだまの沈黙というアイロニーである。こだまというのは意識に響き渡る自分の心の声だ。ヴァレリーはある詩の中で、彼方へみみをすませば、彼方もこちらへみみをすますのだ、と歌った。
作品とは、性能の悪い一個の受信器である。これに僕らは向き合い、矛盾を書きつけていく必要がある。
作品を作るのは人物であり、ナレーターであり、著者であり、この三者の三位一体こそが規範となるべきだと思われるが、一方で、これらのずれ、齟齬というのも面白い。この点についてはセルバンテスのドンキホーテが思い浮かぶ。この作品は現代であっても学ぶべきものなのだろう。
文学を学ぶには、文章の音律を掴むことだ。掴んで、中空に辛抱強くとどまることだ。文体のうちにある、音律と意味と論理のからまり合いを味わうことだ。どれも全く単純なものではなく、一つだけで成立するものではない。
そして、いったいこの作品を誰が書いているのかと読者が疑問に思うほどに、著者を消失させることができれば、我々はその作品に自信を持って良いだろう。
参考
古井由吉 翻訳と文学と 動画
フローベール 書簡集