何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

古井由吉(ふるいよしきち)さんの対談

youtubeにあったやつ。

小説とはnobelと書き、その字義からも作者の独創性による新しい説でなければならない、と考えそうになる。しかし、それは実のところまったくもって逆なのだ。

そもそも独創性 originality という言葉自体の中に origin という起源を表す言葉が埋め込まれており、独創とは分解してみればさまざまな先人の創作に基づいたものになっている。小説を書くときに作者が使う単語のひとつひとつも全て彼の創造物では無い。作品の中に1割でも作者の独創があったなら大したもので、なんなら実のところ独創が一つもなかったとしてもそれで良いのだ。

文学は矛盾と向き合うものなのだと、古井さんは言った。僕はこの言葉が好きだ。僕は長いあいだ数学に惹きつけられてきたが、今となってはそれに向いていなかったのだど分かったが、それでも、どうして自分がこんなに数学に惹きつけられたのかと思い返してみると、やはり矛盾の近傍に数学を通して行けるかもしれないという幻想に捉えられてしまったのだと思う。数学は神経症のごとく矛盾を避けて徹底的に排除して物語を紡いでいく体系だが、このことで相補的にその外側に矛盾を描き続けていると言える。実際ある一個の命題が正しいならば、それに反することを認めることは全て矛盾だ。この様にして数学は、非常に詳細でトリッキーな形の矛盾を絶えず生成している。

一方で文学は矛盾を直接的に描写する。古井さん曰く、登場人物がいて、作者がいて、ナレーターがいる、なのに登場人物はしたたかそうな観客たちの前でいつでもバカな行動をとる、この小説の構図自体が矛盾なのだ。文学はその形式上、矛盾から始めて矛盾を描写することができる。これは数学ではもちろん出来ないし、モデル化を必要とするあらゆる科学でも出来ないことだ。なぜならあらゆる科学的理論は矛盾を出発点としてしまえばその時点でその後に展開される全てが無にきしてしてまうからだ。

文学とは、先人の声を聞き、自分が流れている場を感得し、矛盾というものと直接的に対決する営為なのだろう。古井さんの受け売りだが、今の自分はこう考える。