何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

エイヤー著 言語・真理・論理 第一章

哲学の体系を、自分のなかにいかにして作り上げるかの指針を与える。以下のステップが提案される:

(1) 陳述を分析的命題、経験的命題、ナンセンスに分類する。

問題点: 同語反復でも弱い意味で原理的検証可能でもない陳述がナンセンス、とあるが実際に判別するのは難しいであろう。

(2) 経験的命題の確からしさを観察と合理性によってチューニングする。

問題点: なにが合理的判断であるかが、その人の現在の状態に左右される以上、確からしさという概念は非常に曖昧なものになる。

 

形而上学の除去

哲学の目的と方法をはっきりさせ、いかなる命題が哲学の範疇に入るのかを定義づけるためには、端的な除去の作業を進めていくだけで良い。(13)

例えば、哲学は超越的実在についての知識を与えるものではない。わかりやすい例として、超越的存在についての知識を持つことができる、という命題を哲学的意義を持たないものとして反駁しよう。(14)

その反駁のためには、その超越的命題の内容が経験から乖離していると言うだけでは不十分である。むしろ、内容を云々する以前に、その陳述を字義上の意義において、議論することが適切である。(14)

超越的命題の理解の不可能性はすでにカントによって論証されていると思うかもしれないが、それは暗に超越的存在を認めるという誤りを犯している。ナンセンスな命題の内容を否定しようとすることは、すでにナンセンスであるのだ。(16)

我々の立場は、これらの批判とも一線を画している。我々はただ、ある文章が事実について何かを述べる命題であるのかを判断するための基準を提示する。そしてこの基準に照らして、弾かれるものは全て文字通りナンセンスな形而上学的な命題である。(16、17)

我々はある文章が有意味であるかを判断する基準として、同語反復と検証可能性を採用する。このどちらにも属さないものが、ナンセンスな命題である。(18)

ただし我々は検証可能性を注意深く定義する必要がある。

まず、検証可能性には実際上のものと原理上のものがあるが、実際上の検証可能性に限ることはあまりに狭すぎるので、原理上の検証可能性でもOKとする。(19)

さらに、検証可能性にも強い意味のものと弱い意味のものがあるが、我々は弱い意味の検証可能性を採用することにする。つまり、その命題の可能性を示す、なんらかの観察があるならば、その命題は(弱い意味で)検証可能である、と言うことにする。(20-23)

以上をまとめると、哲学的に有意味な命題とは、分析的命題と経験的命題であり、経験的命題とは原理上弱い意味で検証可能な命題である。この意味で有意味でない命題はナンセンスな命題である。(28参照、アプリオリな命題とは分析的な命題のことである)

さて、どのような命題がこの基準によってナンセンスとされるかを見ていく。

「感覚・経験の世界は非実在である」という主張は検証不能なのでナンセンスである。(24)

また、世界に存在する<実体>が多元的か一元的かを議論することも形而上学的な議論に終始する限りナンセンスである。(25)

実在論者と観念論者の論争も同じく形而上学としてはナンセンスである。しかしそこに存在命題の分析としての論理的な分析を加えるならば、有意味な議論となりうる。(26)

さて、そのようなナンセンスで形而上学的な確言が行われるようになった理由を示そう。それは文法上のエラーや迷信に由来する。具体的には、

1) 文法的な取り違え。

2) 主語が実体を持つという錯覚。

がナンセンスな言明を生み出している。(32)

一方で、形而上学者のことを居場所を間違えた詩人として語る人がいるが、我々はそれには賛成できない。なぜなら、彼らは単に文法的なミスによってナンセンスに落ち込んでいるのであり、文学的な効果を狙っているわけではないからである。作家が書く文章であっても実は大部分有意味なものであり、あえてナンセンスな文を持ち込む場合にはそれだけの意図があるからである。(34)

我々は、ここでは(おそらくパンセなどの)神秘的な感情から生まれた章句の数々も形而上学の命題と同様ナンセンスな命題として分類することにする。(35)