何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

数学教育とは

大学院に入るとまず、学ぶべき言語を選択してその文法を学ぶ。

これは日本語の国文法を学ぶことと同じだ。ただし、数学を記述する言語は形式言語なので、日常で使う自然言語と違い、その文法を自覚的に学ぶことで始めて自分でも書けるようになる。小説でも日常の自然言語の使用とは異なる、物語を描写するをための表現形式があり、自分が創作するためには、これを自覚的に学ぶ必要がある。

それからその言語を使って論文を書くことになる。

論文は、その言語の文法に則っている必要があり、されに論理的に正しい命題を生成するものでなければならない。そしてその価値はほかの真実に対して、その論文がどれだけ開かれているかによって決まる。

一方で小説は、国文法に従って書かれており、読む人の心情に作用する描写からなるものだ。その価値も全体としてその作品が<どれだけ他者の世界に対して開かれているか>にかかっている。しかしこれは作品内でプロパガンダを喧伝することとは全く違う。

このように考えると、数学の論文を書くことも、文芸創作を行うことも、ただスタイルが違うだけで、その目指すところも案外共通しているのではないかと思う。

だから個人的には、励まされると同時に不安でもある。今までの学びが活かされるのは嬉しいが、ここまでの挫折もここに引きずってきてしまうことになる。結局僕は逃げられない。