何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

言語・真理・論理 第二章

哲学の機能

哲学の仕事とは陳述の明晰化と分析のみである。ここでの分析とは陳述の言語学的な意味の観察であり、特に定義の問題の分析である。ゆえに哲学は経験科学一般とは競合しない。議論においては定義についての命題を事実的命題と取り違えないよう注意することが大切だ。

 

1 哲学の役割は、演繹的な体系を構築することではない。演繹の拠り所となる第一原理が存在しないので、体系は建設し得ない。

2、3 第一原理は確実とはとてもいいきれない自然法則から得られるはずがない。また、デカルトのように、我思う故に我ありを第一原理とすることには、2つの誤りがある。一つはわれ思うを否定しても矛盾は起こらないので、これが絶対確実とは言い切れないこと。もう一つは、思うことが存在することを何も説明していないこと。

4 飛躍のない演繹を作るには体系は同語反復の中で閉じていなければならない。これは哲学の体系とはいえない。故に、哲学の演繹的な体系は存在しない。

5 哲学とは<全体としての実存>を追求する学問であると規定すると形而上学に陥る。そこでまずは哲学とは、あらゆる科学に関心を持つものであるとする。

6,7 また哲学とは科学とは別の思弁的知識の集合であるという主張も形而上学的で誤りである。結局哲学とは、批判的な活動である。

8-11 しかしそれはあらゆる前提を疑うということではない。哲学的な批判とは論理と実証において陳述を分析することである。我々のこの規定では形而上学に陥らない方法で帰納法の正当性を検証することは出来ない。

12 合理性とは何かを定義することは、我々の哲学の役目である。しかしその定義が与えられても、それだけでは合理性、即ち科学の正当性を保証できるわけではない。哲学はただ定義を与えて、分析する。

13 感覚と物質の関係について、それを論じるために感覚の厳密な分析を要求する認識論(フッサール現象学)は誤りである。なぜなら、そのような感覚の分析が達成されなくても、全く別に物質の正当性は観察経験によって確認されるから。

14,15-17 結局のところ哲学者の仕事とは、陳述の明晰化と分析のみである。かくして哲学は知識の一特殊部門となる。

18-22 哲学の歴史は大部分は分析の歴史であったと言える。ロック、ヒューム、バークリー等(の経験論者)もそうである。故に我々の哲学の定義は歴史からズレたものではない。

23-26 批評家は分析とは部分への解剖であると勘違いして、全体は部分の総和ならずと批判する。しかし、哲学者のいう分析とは、対象の分解ではなく、陳述の言語学的な観察であり、その批判は的はずれである。さらに哲学は陳述の観察であり、それ以上ではないので、経験科学とも競合しない。

27-30 (定義についての)言語学的な命題が事実的な命題と混同されてきた。たとえば、

『物体は同時に二つの場所にあることはできない』

これは事実的にみえて言語学的命題である。我々はこのような紛らわしい言葉遣いをするが、これを分析するのは経験的な問題ではなく、言語学的な定義の問題であることを肝に命じておく必要がある。