何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

言語・真理・論理 第六章

倫理学と神学との批判

倫理的価値についての命題は経験的命題ではない。

1 我々は、「全ての(事実内容を含む)総合的命題は(過去の経験から未来の経験を予測するに役立つような)経験的な仮説である」と主張する。しかしこれには(倫理学者からの)反駁がある。曰く、『総合的命題には、経験事実の問題に関するものだけでなく、価値の問題に関するものがたしかに存在するので、総合的命題全てが経験的仮説とは言えない。倫理学や美学がそのような価値についての総合的命題であり、主張への反例だ』

2 価値判断に関する総合的命題のうち有意味なものは全て科学的な命題である。科学的でないものは単なる情緒の表現である。これを主張するために、倫理学についてみてみる。

3-7 倫理学者の著作の内容は非常に混沌としており、その内容を推し量ることは困難である。その倫理学における述語の定義以外の主張は、我々の観点からはナンセンスと言える。よって述語の定義のみに着目しよう。一体、この倫理的な述語を非倫理的な述語に還元し、倫理的な陳述を経験的な陳述に翻訳することはできるだろうか?(もしこれが出来れば2での主張が認められる。)しかしそのような翻訳を、功利主義者のように快楽や苦痛への変換によって行うことは出来ない。倫理的な判断というのは、経験的なものではなく、絶対的内在的なものと言えるだろう。

8-11 つまり、倫理的および規範的な命題は経験的な命題でも分析的な命題でもなくて、第三の取り扱いをしなければならない。

12-19 結局のところ、倫理的な判断とは真偽がつけられるものではなくて情緒的なものである。それは「お金を盗んだ」という叙述に、「お金を盗んだ!」と感嘆符をつけるような感情の問題である。また、このような情緒的な陳述は感情や行動を誘導することがある。しかしいずれにせよ、これは真偽の判断が可能な命題ではない。主観主義者は倫理的な命題を、個人の感情を述べたものとして真偽の判断が可能なものと考えるが、我々は陳述に表現された感情は陳述者の感情とは別であると考える。

価値について、人と語り合うことは可能か。

20 (ムーアの指摘) 『倫理的な判断が個人の感情の吐露しかない以上、(共通の)価値判断について議論することは不可能となる。しかし、価値についての議論はなされるべきものなので、君らの理論には欠陥がある』

21-26 価値についての議論は、実のところ事実についての議論である。ムーアが言うように直接価値について議論することは不可能であるが、相手の持っている価値体系を推測して、事実について語り合うことは可能であり、倫理的な価値についての議論に見えるものは実はこのような議論である。そして、倫理学の研究とは、この文化的社会的な価値体系の研究であり、そこに真偽を判断できるものではない。

27-29 倫理学の構造それ自体の研究は社会学又は心理学によって科学的に行われる。これは倫理学の命題に科学的意義を与えるものではないが、なぜ倫理学的規範が確定的な定義として受け取られてしまうのかといったことを解明する。

宗教的知識を持つことは可能か。

30-36 まず第一に、『神が存在する』という命題を分析的な命題として演繹することは不可能である。なぜなら、分析的な命題たちは同語反復の中で閉じているからである。またこの命題は経験的な命題でもありえない。よって、神が存在する、という命題はナンセンスである。ここで注意すべきは、この主張によって我々は『神の存在は知り得ない』とする不可知論者や『神は存在しない』という無神論者のどちらを支持していないということである。

宗教と自然科学の一般に考えられているような対立は存在しない。

37 なぜなら、宗教的な命題はナンセンスだから。ただし、自然科学の発達が宗教の衰退を招いていることは事実であると思われる。科学の発達により、自然の推測がある程度行われるようになると、人を宗教へと導く制御できない自然や運命への畏怖の感情を減じてしまうからである。これは、社会の混乱が宗教のブームを生むこととも整合している。

まとめ

38-42 宗教的知識は本人がなんと言おうと、経験的なテストに耐えうる命題を彼が提出できない限り、ナンセンスである。しかし、人が宗教的な体験をし宗教的な感情を抱くということは心理学的に興味深いことである。