何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

夏目漱石 中身と形式 1911

この講演の最初の10%が一般の聴衆向けて講演するにあたっての前口上に費やされていて、なにかこの題名にちなんだ皮肉的な冗談なのかなと思った。この前口上で講演の場所やどんな心持ちで話すのかどんなふうに話の内容を決めたのかについてひたすら言い訳めいた言葉を並べているのは、たしかに形式というもの全般を歯痒く感じていることを言い表したかったからなのだろう。

話は彼の子供の話にうつると思うと、すぐに本質的な問いに飛ぶ。人は安心したいがために形式を求めずにはいられないということ。特に子供は「こいつはいい奴?悪い奴?」と最もシンプルな善悪という形式に敏感でそれが白か黒かを無邪気に質問する。これは彼らがまだ何事にも悪か善を白黒つけられない状況があることを知らないからなのだけど、このようにでき合わせの形式に物事を詰め込んで理解の材料にしたり表現の出口としたりしたくなるのは、専門家であれ門外漢であれ大人でも同じなのだ。

中身と形式は矛盾する。中身は本質的に無形でありここのものであり価値判断の基準を持たないものであり、一方形式は白黒はっきりしている代わりに中身を一定の範疇に押し込めて消失させてしまう。中身を経験したければ飛び込むことで、形式を把握するには一歩ひいて俯瞰することだ。プールサイドで溺れるものの描写をすることは可能だけど、実際に溺れているものはそれを表現する手段を持たない。

いま、自分の中には人生に負けたという感情となにも成せなかった罪悪感と、義務を果たせなかった悔恨とこんなことなら別の道に行けばよかったでも今から別の道に行っても同じように行き詰まりそうで怖いという気持ちと、想像力の無さを突きつけられた無力感といったものが渦巻いている。自分はただ変人になりたかったのに、形式にとらわれて中で広がる虫歯のように中身を黒い黴菌に食い尽くされてしまった。これは自分に対する罪だと感じる。自分が自分を意識するとき、中身を感じられるようでありたい。しかし中身を体感するということは、水の底で孤独に溺れ続けることなのだ。