何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

好きでした

僕はひどい肩こりだ。腰にも違和感がある。これは僕の持病だ。十九からこうなんだ。これさえなければ僕の人生もっと高いところへ行けてたんじゃないか、こんなに鬱々とした日々を歩む羽目にはならなかったんじゃないかと本気で思っている。

大学一年の時にどうにもこうにも痛みがひどくて、一度意を決して大学近くの医院に行ったことがある。その時の印象を今でも記憶している。結論から言うと、ここに行ったのはあまりいい選択じゃなかった。なんせとても古い整形外科だったんだ。先生もお年を召したおじいちゃんだったし、治療法も器具も旧式で、なんだか全体が薄暗かった。僕は頚椎をちょこっと調べられた後、背骨のS字カーブがどうのこうのと診断されて、牽引処置を受けるべしということになった。それはまるで拷問台のような代物で、僕はその椅子に括り付けられて、半時間ロープで首を上から引っ張られたんだ。こんな荒療治が本当に現代の医療だとは到底信じられない。そんなわけで、牽引を受けた後の一ヶ月間、僕の首は人生最大の不調に見舞われた。その上、君に振られたショックも引きずったままで、僕は早々に東京から落ちこぼれてしまったんだ。しかしまあ自分の挫折を好きな子のせいにしてしまうのはこれ以上ないくらい情けないことだよね。

「あの子は今どうしてる? 」

君との共通の友人に消息を聞いた。彼は教えてくれなかった。僕は浪人している彼の部屋に、成績開示の得点を自慢しに来ていたのだけど、急に君を思い出して苦しくなった。

「そんなことしない方がいいよ。彼女も嫌がってる。君が完全に狂ったと思って、怖がってるんだから」

彼にそう言われてみれば、たしかに君は僕からのあらゆるアクセスをブロックしていた。メールも君のブログも駄目だった。結局、君とはそれっきりだったね。

なんだかまた君を不快な気持ちにさせてしまったね。そうなんだよ。その当時の僕はまだ未来を信じていて気がついていなかったのだけど、僕にはこういう薄暗い部分が絶対的にあって、この方向に強く方向づけられていたんだ。

ある時、高校からの帰り道で、将来どういうふうになりたいか、みんなでこそばゆいことを言い合ったね。僕は僕以外の誰の夢も覚えていない。僕は当時から自分にしか興味がなかった。いや、僕自身がなんて言ったかも曖昧だ。

「自由に考えられるようになりたい」

みんなから少し後ろを歩きながらうわずった声で言った気がする。

「どういうこと? 」

そこにツッコミを入れてくれたのは君だった。嬉しかった。

「つまりは僕は固定観念、例えば学歴なんかどうでもよくて、誰もが自由に考える、頭の中を自由に出来るということを守るために東大に受かりたい」

僕はトンチンカンな宣言で応じた。『お前はこれくらいなんだ』と社会に否応なしに決めつけられることが怖かったんだ。

「それってなんか嫌味だね」

と、君は笑ってコメントを加えた。君は賢い子だった。君の家族も優秀だった。僕は君に憧れていた。羨ましかったんだ。君はこんな生まれも育ちもダメダメだった僕を一度でも羨ましいと思ったことはあったんだろうか。きっとなかったと思う。君は面倒見の良い子だったから、そして少しばかり劣等感の強い子だったから、何もかもが情けなくてお馬鹿な僕が見ていられなくて、ついうっかりちょっかいを出してしまったんだと思う。初めから間違いだったんだ。接点なんて初めからどこにもなかった。

君と週末に初めて出かけた時は楽しかったな。二人で地下の噴水まで歩いたね。あそこは本当に印象深い素敵な場所だった。今ではすっかり変わってしまったけど、一種アングラな雰囲気が流れているのは当時のままだ。

噴水前の白い丸テーブルに向かい合って座った僕らが何を話したか覚えてる? 僕も全く覚えていない。それでも、こうやって君との記憶を辿ることこそが僕にとって一番の楽しみなんだ。あの頃、僕は君のことが全身で好きで、本当に好きで、君の全部が大好きだった。君の手を握った時、小さな爪の可愛らしさに歓喜したよ。

しかし、僕には未来なんてなかったんだ。君は本当に正解だった。僕は君からの一方的な別れという、優しい最後通告を無視して何の改善もなく病んだ状態を放置して生き続けてしまった。

君に振られたのは、大学に進学する前の春休みだった。こう書いていると断片的な記憶が蘇ってくる。まず入学手続きの列があった。僕は一向に進まないその列で誰か他の新入生に声をかけたと思う。当時の僕はまだそういう突拍子もない行動に出る悪戯さを持っていた。もしかしたら君の第一印象の中の僕はこういう僕かもしれない。だとしたら、今これを書いているのは君が心底嫌いになった僕の性質の凝縮された残り滓ということだ。

僕は当時から自臭症気味だった。実際臭いがあるのだと思う。今も僕は自分の口臭が気になって仕方がない。万年蓄膿症な上に歯磨きもせずに寝ているし、虫歯も放置しているのだから当たり前なのだけどね。歯といえば、君のお父さんは歯医者さんだったね。君の見事に整った可愛らしい歯をよく覚えている。歯医者の娘の歯はどんくらい白いんだろうかって、こっそり注目してみたことがあるけれど、その時に見えた君の歯はそれほど真っ白でもなくて自然な黄色みがあった。僕はその時安心したよ。

そのたった一回だけのデートの日のことをもう少しだけ思い出したい。僕らは新潟の街の本屋に行ったね。白い階段を登った先のその店は検定教科書も販売している割と大きめのとこだった。二階にあがると漫画と文庫本のコーナーがあって、僕は熱心に外国文学について知っているだけの知識を君にひけらかしていた。君は青白い顔をして黙って聴いていた。ついにトイレに駆け込んだ。君はしばらく出てこなかった。

「大丈夫?」

「ちょっとお腹が調子悪くなっちゃって、吐き気もするの」

涙目で君は答えた。申し訳なさそうに俯いて謝る君に何も出来なくて、僕はバツが悪かった。階段を降りる時、ふらつく君の身体を横から支えた。君の身体の重さと温かさを感じた。

君はこのデートをきっと楽しめなかっただろうと思う。僕は不甲斐なかった。ただ映画を二人で見たことはよく覚えてる。僕は君ばかりを観ていた。君は手を握ることを許してくれた。君は意地でもこっちを観なかった。

「映画どうだった?」

「あんまり。実は集中してなくてよくわからなかった」

「えー、もったいない。私は集中して楽しめたよ」

と君は少し意地悪そうに笑った。君ばかりに集中してたと白状すると、君は顔を赤らめた。

結局、僕は何も経験せず、何も学んでこなかった。積み上げることのなかった人生が今の僕だ。ただひとつ嬉しいことは、こうやって十代の思い出に浸れることだ。この感傷が僕に残された希望であり、物語の続きの予感であり、僕を現在に繋ぎ止める唯一残された意志でもある。この一点だけで僕は今をなんとか生きながらえている。僕は今度こそ描き出したい。描写がすべてだ。意味に還元できない個別の描写のみが人生だ。拙い語彙とボロボロの頭と身体で、書けるもの全てを貪欲に言葉にしていきたい。創世記にあるように、初めに言葉があるんだ。僕にとっては言葉にすらならない声、声にすらならない苦し紛れの呼吸が言葉だ。これだけあれば、僕は望むもの全てを描写できるのだと信じたい。