何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

物語というのは厄介な物で、それがどんなにくだらなかろうとそいつを考え付いた当の本人がどこかでそれを表現しないかぎり、いつまでも心の中でくすぶって煮え切らない感情を残していく。この嫌なしがらみから抜け出すには物語を何らかの方法で外に出すしかないのだが、たいていの物語はただのうっぷんじみていて支離滅裂な代物だし、それに当人にはそれを表現できる文才がないことがほとんどだ。そういうわけでほとんどの人々の物語は誰にも知られずに埋もれていく。あっちもこっちも決して読まれることのなかった物語で街はいつも一杯だ。

俺の中にも同じように気持ちの悪い物語のくすぶりがあった。本当に小さな、凡庸にまみれた物語である。それは遠慮がちに小さく丸まって、心のすみから俺をにらみ返している。もちろんそれが見えているのは俺だけだ。その目つきが何ともいえず気持ち悪く、俺はそいつを外に出してしまいたくて仕方ないけど、そいつはまだまだ未完成だし(きっといつまでもこいつは未完のままなんだろう)、それに俺は物語を表現できるような文才も持ち合わせてはいない。
しかし、文才が何だろう!
どうせへんちくりんな形にもなってない物語ではないか。こんなものに文才など持ち出す必要はないのだ。舌足らずの文体でもいい。とにかく外に出してやれればそれでいい。完全な自己満足はやめてくれと言われるかもしれない。だけどきっとほとんどはこんなものさ。心の中にあった屑山が紙の上に文字となって散らばっただけ。


俺はここのところ本を呼んでいない。本なんか読まないという人は世の中にはいくらでもいて俺はその無数の無学な人間の一人になり下がったというだけのことなのかもしれないが、これは俺にとってはいくらか重大なことだった。読書すらしなくなったということは俺の精神が本格的に堕落し始めてきたことを示唆している。子供のころから読書はそれなりにしてきたつもりだ。読書とは儚いかもしれないが俺にとっての一種の救いだったのだ。それが今では読書する落ち着きもない。人の話など聞いていられないという状態だ。

これではいけないと思い、この日はまだ行ったことのない隣町のの図書館に行くことにした。駅前のくせに道が細く入り組んでおり、全く図書館の位置がつかめず、うらぶれた小学校の狭い校庭の脇の道で立ち止まり、携帯のGPSで確認してみるとちょうど目の前にあると出た。なるほど少し進んだところの左側にそれはこじんまりと建っていた。‘何々図書館’と大それた名前が付いていたからもっと立派な近代的なものを想像していて肩すかしをくらった感じだ。全体的に小さな町の図書館といった感じで、独特の陰気臭いにおいが立ち込めている。平日の昼間だからより一層そう感じてしまうのかもしれない。


入り口は非常に小さかった。
入り口前はなぜかロープで真っすぐ入館者を制限するように通り道が区切られていて、さらにその狭い入り口を制限しているようだった。
なぜこんなことをしているのかわからない。きっとこんな狭苦しいのもを全部追っ払えば外観も少しはましになって閉鎖的な雰囲気がいくらかでも和らぐのに。
とにかくこんなにも入り口が狭いので必然的に一人か二人ずつしか図書館に入り込めない。これは俺にはあまり気持ちの良いことではなかった。だって平日の午前中だ。やはり後ろめたい気持ちはある。できれば数人の人にまぎれてこそこそと入館したかった。
しかしここまで来てはもうそんなことも言っていられないのでできる限りの速足で入館口を潜り抜けると、中は案の定ため息の出るような光景だった。老人と中年のおやじと年齢のよくわからない男たち。どれもそろってうだつの上がらない風采に見える。そして周りから見れば俺もこの人たちと変わらない雰囲気を醸し出しているんだろうなあと思うと、またひとつ大きくため息をつきたくなった。
ここに女性はいない。老婆こそちらほらいるようだが、若い女性は皆無である。確かに少なくとも平日の昼間のここは女性が足を踏み入れられるような場所ではない。
俺がよくぼんやりと眺めている2ちゃんねるのどこかの書き込みで「男の人生は博打にちかく、女の人生はそれよりは安定している」みたいなものを見つけてこんなものなのかなとそのときは思ったが、やはり本当にそうなのかもしれない。そしてここに今いる男どもは勿論いうまでもなく・・・。しかしいまさら男はこうだ、女はこうだとあれこれ言ったって始まらない。産まれてきたものは仕方ないんだ。第一、ここに今いる全員が無職の所謂ニートだとは限らないのだ。そうだ、俺自身にしたって・・・。

俺は後ろめたさに逃げ込んだ本棚と本棚の間で息を小さくひそめながら、去年まだ新潟にいたころのことを思い出していた。

その時も平日の昼間だった。俺は高校三年で、図書館へ向かう道にはちらほら雪が積もっていたかもしれない。ここよりもずっと大きい近代的な図書館でちゃんとした自習室も設置されていた。俺はよく学校をさぼってそこにこもって勉強した。なんだか学校とは違う時間が流れているようで新鮮だった。時には同年代の女の子がそばで勉強していることもあって、妄想を掻き立てられた。大学受験のための試験勉強で頭がいっぱいになりかけていたその当時の俺にとってはそれだけで深い感銘を覚えるに十分だった。些細なことの一つ一つがもっと今よりも柔らかくて癒しの力を宿していた気がする。きっと今だからこそそう言えるのだろうけれど。月並みな思い出の美化ではあるけれど。

そして今俺は念願叶って東京に出てきて、純粋に親の仕送りに頼ってバイトもせず、学校も夢ももう中途半端で、今日もこんなところで貴重な時間をもてあましている。春からこんな調子で、いつの間にか寒い季節が訪れていた。

俺は本屋で何度も見かけたことのある題名の小説を手に取り、書架の上の階の読書室の机でそれを流し読みした。読書室はさらにひどかった。がらんどうの部屋に、広すぎる間隔をとって木製の机が並んでいた。どこか自分が外気にさらされているような感じがして居心地が悪かったので、その本を読み終わるとすぐに読書室を出た。
 無駄に広すぎる階段を下りて、出入り口を潜り抜ける、ああやっぱり外の空気は新鮮だと息を吸い込んだところで後ろから肩を叩かれた。驚いて吸い込んだ息が体の内側で出口を見失い、ほんの一瞬口をぱくつかせた。
 振り返ると後ろで男が笑っている。その男の顔があまりに先ほどの男どもの顔そのままで不快に感じた。が、しかしこの顔には見覚えがある。
 「そんなに驚かなくたっていいじゃないか」
 男はそう言って笑ってヤニだらけの汚い歯を見せた。
彼は同じアパートに住む西嶋さんである。外見はいつでも不潔な印象を受ける。中年にさしかかっているが独身で、無精ひげを生やし、髪は無造作な長髪で、目はいつもずるそうににやけている。この日は黒いナイロンのジャンバーを着ていた。
「ああ西嶋さん・・・どうも」
「意外と秋田君は臆病なんだな。いつも無表情なイメージだけど」
 「無表情ですか。そんなことはないです」
 「まあ同じ所に住んでいてもあんまり会う機会はないから、本当のところはわからないよ。しかもあそこにはめんどくさそうな人が多いしね」
 西嶋さんの笑いにつられて俺も小さく笑った。たしかにあのアパートの住人は少し変わっているのかもしれない。
 「ところで今日は平日だろう。どうして東大生がこんなところにいるんだ。学校はさぼりか」
 やはりそこをつつかれた。しかしそれはそっくりそのまま相手に返してもいい質問だ。どうしてあなたはこんなところにいるんですか?仕事はしていないんですか?と。だけどそんな面倒な質問をして、あえて空気を悪くする必要もない。
「はい・・・さぼりです」
 できるだけ明るく、よくある大学生の行動みたいに、深刻に聞こえないように答えた。
「いいなあ学生は。それが許されるんだから」
 西嶋さんが妬ましげにつぶやき、タバコをくわえる。西嶋さんはどうやってそのタバコを買っているのだろう。年老いた母からまだ仕送りをしてもらっているのだろうか。
 
」何気なしに駅への道を歩いていると、西嶋さんにちょうどいい時間だし昼飯でも食っていこうと誘われて、駅前の松屋に入った。