何も誇れぬ人生の記録

『ぼくは何も誇れないのが誇りだな』沼田真佑、影裏より

赤染晶子 うつつ・うらら

「わて、実はパリジェンヌですねん」

 マドモアゼル鶴子は昭和四十二年からずっとこんなことを言っている。

(はじめ)

うつつうららな観客の視点に立つ描写が展開する。街から重いぬるま湯が重い扉が空く度に流れ込んできて停滞しているような劇場で芸人鶴子がひとり漫才をしている。漫才の内容はぶっ飛んだおフランスネタで一人二人いる観客はついてこれずあっけにとられている。そこにさらに下の映画館からエロ時代劇の音声が毎回響いてくる。もう鑑賞どころではない。しかし鶴子にはここで漫才を続ける自分なりの理由がある。いつか下の映画に大女優として出演するのだ...。

(おわり)

過剰。短い文を畳み掛け畳み掛けする描写。パリ千代というオウムがいて、彼に名を呼ばれた芸人はうつつから消えてしまう。なのでみんな名前を口にしないようにしている。また金太郎という妹の赤子は言葉を今にも覚えて必死に世界を理解しようとしている。鶴子は理解したくはない。しかし要求は否応がない。ついにパリ千代がツルコと呼ぶ。消えゆくつるこをはために金太郎もついに鶴子と口にする。これらのカタルシス

石沢麻衣 貝に続く場所にて

人気のない駅舎の前に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた。

(はじめ)

静謐な情景描写。異国の歴史あるゲッティンゲンの駅舎で9年ぶりに会う野宮を待つ主人公。傍らには友人から預かっているトリュフ犬がいる。その場の特性をモチーフに静かに記憶が、時間の隔たりが、語られる。二人は太陽系のオブジェに沿ってキャンパスへと歩く。

(おわり)

何故か泣けた。たどり着けるかもしれませんね。きっとたどり着けます。という言葉に感情が揺さぶられた。震災で消え去った人たちと今はなくなったはずの冥王星のオブジェのある場所の塔を訪れた。彼らは失われたまま時間を隔ててしまった何かをここで確かめあっていた。眼の前の青とどうしようもなかったあのときの青が彼女の中で重なった。像をはっきりとは結ばない言葉のやり取りの中で心が伝わりあうことが澄んで響いていた。

佐川光晴 ジャムの空き瓶

ある朝、男はバスの走り出す音で目を覚ました。しかし、目を覚ましたと言っても、すぐに目を開けたわけではない。

(はじめ)

自叙伝のデフォルメか。男と妻がバスの音で起床する。男が29歳アルバイトで妻が32歳教師であることが会話のそれとない回想からわかる。妻は起きぬけに体温計を毎朝咥える。ある夫婦が不妊症であることに気が付き、男は医者に産婦人科医を紹介してもらいに走った。

(おわり)

淡々と叙述が続く。人工授精に望む男の日常。